日の光が届かない地底深くの闇の世界。それがここ魔界。
ふさがれた天に向かって我よ、我よと競うように所狭しに立ち並ぶ高層ビル。
そこにともされた無数の光は魔界では決して見ることの叶わない星空というものを連想させた。
眼下に広がる人工の光が支配する街並みを、一際高いビルの一室から眺めていると背後からシュッと扉の開く音が聞こえた。
「兄さん!こんなところにいたのね」
カツカツとヒールの踵が床を蹴る音が近づいて来る。
回転式の黒い革張りの椅子をくるりと回し、声の方へと振り返ればそこにはよく見知った妹の姿があった。
だが、とんでもない形相をしている。これは相当お怒りだ。
「どうしたニヒタ。お兄ちゃんに何か用かい?」
そうは言ったが、彼女が顔を真っ赤にして憤っている理由についての察しはついている。
だが、あえてこうして問うてやる。その方が、反応が面白いからだ。
「ふざけるんじゃないわよ。またジェラト兄さんに影武者させて自分の仕事押し付けたでしょ!」
予想通りニヒタは元から悪い目つきを更に鋭くして僕を睨んだ。
並みの男なら腰を抜かしてしまうような気迫だが、18年もこいつの兄をやっている僕にそんなものが通じるはずもない。
このぐらい日常茶飯事だ。彼女の逆鱗に触れると分かっていても、そんなことはおかまいなしに自ら火に油を注ぐ。
「あいつがいいって言ったんだからいいだろ。ホントお前はジェラトのことになるとうるさいよな。なに、乙女はお兄さまに恋してるってやつ?」
僕がにやにやと意地の悪い笑みを浮かべると、怒りか照れか、それともその両方からか、
ニヒタの赤みを差した頬はいっそう燃え上がるように色を濃くした。
「そんなんじゃないわよ!」
そうやってムキになって否定するあたりが余計に怪しい。
正直、こいつはマジで次男のジェラトに恋してるんじゃないかと思っている。
同じお兄ちゃんとしてそれは少しばかり面白くないことでもあり、故にからかって遊んでしまうってわけだ。
「イヴ兄さんのそういうところ本当に嫌いだわ」
こうしてニヒタとの溝は深まっていくのである。
でも、何だかんだ言って彼女は僕のことも好いているだろう。ジェラトと同じ顔だし。
さて、これ以上いじるのも可哀相なのでそろそろ話題を変えてやるか。
「はいはい。で、それだけ言いに来たの?」
「お父様から呼び出しがかかっているわよ。ついでにその件についても報告しておいたからこってり絞られてくることね」
お返しよ、とニヒタは冷笑する。
「げっ、親父に言ったの!?おいおい勘弁してくれよ」
僕の反応を見て満足したのか、ニヒタはこれ以上ここに用はないと言わんばかりに素早く体を反転させると部屋から立ち去った。
しかし、親父にまで告げ口をするとは予想外だったな。まあ、母さんに報告されるよりはマシだが。
重い腰を上げ、各ゲームのハード機が散乱するゲーム専用部屋を後にし、フロアの中央にあるエレベーターへと向かう。
親父の私室はビルの最上階だ。馬鹿と煙はなんとやらってやつだな。
数分も経たないうちに親父の私室の前へと辿り着く。
扉の横に備えつけられた液晶画面に指先で触れると、シェルターかと思うぐらい分厚い扉が機械音を立てて開いた。
なんで魔界最強の男にこんなシステムが必要なんだよ、と思わないでもない。
まあ、要するに格好から入りたいタイプなのだ。親父は。
「おう、来たか。イーヴィル!」
黒い短髪をオールバックにし、自分が歳をくったらこんな風になるんだろうな、
と思わせる風貌の男が手をあげてこちら見た。つまり僕の親父だ。
「何の用?説教のために呼んだなら僕は帰らせてもらうよ」
乗れば沈むような、ふかふかのソファにどっしりと腰かけた親父を見下ろす。
「あー、ジェラトの件か。それはまあどうでもいいんだけどな。でもあんまりアイツと、それからニヒタに苦労をかけるなよ?」
そう言って苦笑いをしながら、僕が予想していた通りのセリフを吐いた。基本的にこういう適当な男なのだ。
ジェラトのことは本当に気の毒に思う。まあ元凶の僕が言えた義理じゃあないが。
「わかってるよ」
と、適当に返事をするとそれ以上追及されることもなくこの話は終わった。
「でだ、本題なんだがお前ももういい歳だ。そろそろ魔王の座につく気はないか。っていうか就け」
なんとなくは予感していたが、やはりこの話か。小さくため息を吐く。
「嫌だよ、面倒くさい。そのことについてなら何度も断ってるだろ?だいたい親父だってまだまだ現役なんだしそう急くことじゃないと思うけど」
親父が今いくつかは知らないが、どうみても隠居するような歳じゃないことは確かだ。
「断ってるだろ?じゃねぇよ。この俺様がやれと言ってるんだからやれ。俺はとっとと引退して母さんと二人でイチャイチャ世界旅行したいんだよ」
普段見せない真剣な顔つきで語るのが余計に腹立たしい。
どこまでこの親父は自分のことしか考えていないのか。血管がぷつりと切れそうになる。
「知るかよ、クソ親父。それなら僕だってガールフレンドたちと遊び歩いてたいっての。だいたい僕じゃなくても、
ジェラトとかナハシュにでもやらせればいいだろ?」
そう、僕も親父の血を強く引く者として、自分可愛さでは負けていない。
面倒ごとはごめんだ。全力で人に押し付ける。
「ジェラトは病弱だから無理だろ。なんと言ってもここ<魔界>は力が全てだからな。
ナハシュは強ぇが二次元にしか興味ねーし。お前より話が通じる気がしねぇ。残りのはまだガキだしな」
だが親父もそう簡単には引かない。あれこれ難癖をつけて一番自分が楽できるであろう僕に押し付けようとしてくる。
だが、ここで負けるわけにはいかない。
「じゃあ直系以外で探せば?よそにもたくさん子供いるだろ?従兄弟の中から選んだっていいし」
親父がよそで遊びまくった結果、その血を受け継ぐ人間は驚くほど多い。
腹違いの兄弟が何人、いや何十人いるのか正直把握しきれていない。
それに親父自体、兄弟が多いこともあって従兄弟が多いのも事実だ。
「まあそれも悪くはないが、色々と面倒だし実力的にもお前には劣るのばっかりだろうからな」
親父は頭をぽりぽりと掻く。そう言われて悪い気はしないが、このまま言いくるめられるわけにはいかない。
どう躱してやろうかと思考を巡らせようとした時、親父がぽつりと呟いた。
「あ、そうだ。そういえばアイツがいたな」
「アイツ?」
誰なんだと問うと、親父がぺらぺらと語り始める。
「昔、天界のジジイとの麻雀勝負に負けて賭け品として取られちまったんだけど、
すげぇ見込みのありそうな奴がいたんだよ。確か三番目の嫁との間にできた子供だな。
アイツを連れ戻して来てくれりゃあ、お前が魔王にならなくてもいいぜ」
麻雀勝負って、残りの二人はどういうメンツだったんだ。
いや、それより自分の子供を賭け品にするなんて何を考えているのか。恐らく何も考えていないんだろう。
「……アンタ清清しいまでにクズだな。まぁいいや、それでそいつはどこにいるか分かってんの?
天界にいるってんなら無理難題もいいとこだよ」
いくら僕が強いといえど、敵地に単身で乗り込むのは酷ってもんだ。対価が見合わない。
それなら魔王をやった方がマシなんじゃないかと思えるくらいだ。
「いいや、流石に魔族を天界に入れるなんてことはしねぇと思うし、地上にいると思うぜ」
と、親父は本当なんだかどうなんだか分からないことを口にする。
「思うぜってまた適当な……。名前は何て?」
「インウィディア。まぁ今もその名前を使っているかは分からんがな。
なにせ連れて行かれたのが十五年以上も前のことだし」
「他に手がかりになりそうなものとかないの?写真とか」
今も名乗っているか分からない名前ひとつで、人探しだなんてそれこそ天界を攻め落とすより難しいかもしれない。
すると親父が手に納まる薄型の携帯コンピュータを投げてよこした。
「ほらよ、こいつだ。当時6、7歳くらいだから生きてりゃ二十代前半ってとこだな」
画面に映しだされた人物を凝視する。親父の血が流れている者にしては珍しく親父に似ていなかった。
うちの兄弟なんか末っ子以外全員似たような顔をしているというのに。
再び意識を画面へと向ける。子供ということもあってか、とても強そうには見えない。
くりっとした目つきをしていて、どちらかというと軟弱そうにさえ見えた。
「ふーん、こいつがねぇ。僕より強いの?」
僕の代わりに魔王にできると思ったから言い出したのだろう。どの程度の奴なのか興味をそそられた。
「覚えてねぇのか?ガキん時オマエこいつにしょっちゅう突っかかっては返り討ちに合って、
びーびー泣いてユリナちゃんに庇ってもらってたじゃねーか」
ゲラゲラと腹を抱えて笑う親父を殴り飛ばしてやりたくなったが、
それよりもその過去の出来事に意識がいってそれどころではない。
「マ、マジで?」
冗談だろと思わず頬を引きつらせながら聞き返す。
「マージマジ。だからまぁリベンジの意味も兼ねて探して来いよ。今でもお前より強いかは分からんけどな。
素質としてはお前と同等かそれ以上はあったと思うぜ」
親父はいつも適当なことを言うが、これは本当のことを言っている時の態度だ。気に食わないが事実らしい。
「ふーん、そりゃ興味あるね。いいよ。じゃあそいつ連れてきたら僕は家からは離れて好きにさせてもらうからね」
過去の汚点を払拭し、ついでに魔王の責務も押し付けられる。一石二鳥ってやつだ。
「おう。んじゃその間はジェラトに魔王任せとくからなるべく早く帰ってきてやれよ」
いや、その間くらいはお前が魔王続けとけよ、と思ったがまた口論になると面倒なのでスルーした。
悪いな、ジェラト。恨むならこのロクデナシの親父を恨んでくれ。
「まあ、そこそこには帰ってくるさ。母さんに宜しく言っといてくれよ」
ひらひらと手を振り、親父の私室を後にする。いい加減魔界も周りきって飽きてきていた頃だし丁度いい。
新たな世界へと出かけようじゃないか。
ぶっちゃけ、例の奴が見つからなくてもそのまま行方暗ませて地上で遊んで暮らせばいい話だし。
自分の私室に戻って、必要になりそうなものを片っ端から魔法で作り上げた特殊空間に放り込むと手ぶらで家を出た。
自宅ビルのまん前にある空間転移装置、テレポーターを使って帝都の中央駅まで移動する。
必要になった分だけ継ぎ足しを繰り返すという、無計画きわまりない作られ方をした駅は美のかけらもない。
むき出しの金属面や統一性のない装飾がそこに住まう人々と同じように争いを繰り広げているように見えた。
相変わらず汚い景観だと思うが、この醜悪さが魔界の象徴らしい気もしてそれなりに気に入ってもいたが。
しばらくこの景色ともお別れかと思うと、ほんの少しだけもの寂しさを感じたような気がした。
おっとこの僕としたことがセンチになるなんて、らしくないな。
そんなことを考えながらホームのベンチでぼんやりとしていると、見知った顔が視界の端に映った。
「やぁ、ユリナじゃないか。キミ地上に行ったんじゃなかったっけ?」
僕がそう呼びかけると、青く美しい長髪をなびかせた女性、ユリナがこちらを振り返った。
少し驚いたような顔をした彼女は両手に抱えた荷物をベンチの上に降ろすと、それを挟んで僕の隣に腰掛けた。
「ええ。ちょっと術式用の道具の調達と実家に顔見せに戻って来てただけだから、今からまた戻るところよ」
なんてタイミングだと内心思いながら、これから向かう新天地について尋ねた。
「ふーん。僕もこれから地上に行くことになったんだけどさ、地上ってどんなとこ?」
「そうね、いいところよ。私たち地底の魔族が憧れる太陽の光、そして澄んだ青い空と海が広がっているの。
まぁ随分と技術は遅れているから不便なところも多々あるけどね」
ユリナは瞼を閉じ、その裏に彼女が見てきた景色を思い浮かべながら話しているようだった。
青い海に青い空。テレビやゲームの中では目にしてきたが現実のものとして考えるのは中々に困難だ。
なにせ魔界の空はいつ見ても暗黒だし、海は赤く濁っている。それを生まれてからずっと見てきたのだから。
しかし、慣れてしまえば、それが当たり前の光景でどうと思うこともない。
「へぇ。そんなにいいもんかねぇ」
色がそんなに人の心に影響を与えるだろうかと訝りながら彼女の顔を見る。
そんな僕をよそに彼女は目を開き、瞳を輝かせながら答えた。
「ええ、いいわよ。私、地上を手に入れるわ。天界人どもにくれてやるには惜しいものね」
「おいおい、さらっととんでもないこと言うなぁ」
魔族らしい邪悪な笑みを浮かべながら彼女は続けた。
「貴方たち王家の人間が何もしないからでしょ?我がマルリアーニ家の名をあげるためにも私はやってみせるわ。
そしてあの人のことも……」
手を頬に当て、空を見つめるその様は言わずとも好きな男がいるのだと察せられる。
話したそうにしているし、一応聞いてやろう。
「あの人って?」
「うふふふふ、聞きたい?実はね」
そう言って、言葉を紡ぎだした彼女は呼吸をしているのか疑わしいほどの濁流のような早口で僕にノロケ話を語り聞かせた。
まぁ、ノロケと言っても話を聞く限り、彼女の片思いのようだけど。
「ここで会ったのも何かの縁だし、一緒に行ってもいいかな?」
話が一区切りついたところで彼女に提案を持ちかける。どうせ旅をするのなら美女が一緒の方がいいに決まっている。
即答はせず、少し間をおいてから彼女は口を開いた。
「途中までならいいけど、私の街にまでは来ないでよ。あんたとあの人を会わせたくないからね。
どうせ余計なことしかしないんだから」
目を細めキッとこちらを睨みはしたが、途中までは許してくれるあたり彼女はつくづく面倒見のいい人なんだと思う。
「ちぇっ、バレてたか。でも気になるな、君の想い人。今だから言うけどさ、僕の初恋の人はキミなんだよ」
そう言って、彼女の顎に手を伸ばしたが即座に叩き落される。
「ハァ?バッカじゃないの。面白くないわよ、そんな冗談」
じんじんと熱い感触が手の甲に広がる。まぁ、こうなるだろうとは思っていたが、少しばかり残念だ。
「だいたいあなた、学生時代、私に何したか覚えてるの?」
「何だよ、可愛いからちょっとからかって遊んだだけじゃないか。好きな子ほどいじめたくなるって言うだろ?」
僕も年頃の男子の例に漏れず、そういう衝動があったので学生時代はよくちょっかいをかけて遊んだものだ。
特に彼女は幼馴染で、色々な分野で実力が拮抗し張り合うことが多かったから尚更だ。
「ちょっとって言うレベルじゃなかったでしょうに。けどいいわ、過ぎたことだものね」
そう言って彼女は髪をかき上げ、ふうと吐息をもらした。
そんな何気ない一連の動作さえ気品が漂っていて目を引くものがある。
「さっすがユリナちゃん。そういうとこ好きだよ」
僕は思ったことを素直に口にしたが軽く流されてしまう。
「はいはい。それから一つ忠告しておくけど、ほんっとうに私の街には来ないでよ?
来たら問答無用で屍にするからね」
声のトーンを下げ威圧的な面持ちでこちらを見やった。おそらく本気なのだろう。
しかし、その可憐な外見とは裏腹に死体使いである彼女が「殺す」ではなく「屍にする」と言っているということは、
僕も彼女のコレクションの一つに入れてくれるということだろうか。
少しは脈ありか、なんて思うが、生憎人の下僕になる趣味は持ち合わせていないのでそれはやはり御免蒙る。
「それはどうだろう。キミと戦うのも面白いからね」
挑発的にそう言ってみると、彼女は眉を吊り上げ体から黒いオーラを放ち始めた。
「ここで息の根を止めておいてやろうかしら」
あまり怒らせると、同行できなくなりそうなので、ここら辺にしておくとしようか。
丁度いいところで電子音声のアナウンスが入る。
「あっ、モノレール来たよ。さぁ行こうか」
立ち上がって彼女の荷物を担ぐと空いている方の手で彼女の腕を引き、赤色に塗装されたモノレールへと乗り込んだ。
これが、新しい世界への第一歩だ。
魔界の人間たちが憧れてやまない地上。一体そこには何があるのだろうか。
あぁ、楽しみだ。
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